昭和四十九年六月四日 御理解第七十六節

 人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか、牛馬は我が子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。

 人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ、ここのところを頂いていきたいと思います。どうでしょか皆さん一生懸命信心をなさっておられるけれども、人の難儀を助ける事を有難いと思うて信心しておられるかということです、まあだ人の段じゃなか自分が助かりたいばっかりに信心しよる、というのが大体ほとんどじゃなかろうかと思うですね、それはここでもおっしゃっておられますように、病気又は災難の時、神に助けてもらうのであるからとこうおっしゃっておられますが、そういう時に助けてもらうのであるからというその助かり、だからそういう時に助けてもらうというだけではひが助かるという助かりにはならないのですよ。
 それは、例えば仮に自分が、色んな難儀な中をおかげ受けた、だからそこに同病相隣む、同じような難儀をしている人があったら、ああたもどうぞ金光さまの御信心をなさい、私が助かったから、ああたも助かりますよというて、お話しをしてあげること、お導きをしてあげる事によって、その人が助かる、例えば、そういう助かりではなくて今日はね、もうひとつ向こうの助かりを皆さんに聞いて頂こうと思うのです、それもやはり人を助けるという事になりますけどね、けれどもそれではそんならその人の本当の助かりにはならん。
 それには人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心する、ですからこれはどういう事になるかというと、病気災難の時に助けてもらうという助かりではなくてね、自分自身が本当に助からなくては、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心する、初から目的が違う、それは段々おかげを頂きつつそこのところがわかっていくのですから、いうならば今日からはそういうところえ焦点を置いて信心をさせて頂いたら有難いことになる、本当に自分が助からしてもらう、それが人の難儀が助かることのできる働きにつながる、こういう心が私は神心だと思うですね。
 自分が助かったから、人にもお導きをするそういうのもやっぱ人を助けることになるのです。けれども今日私がいうのはね根っから初めから段々信心が分かって参りまして本当に信心が有難いという事が分かって来たら信心によっていよいよ自分が助かる、自分が助かるということが、人の難儀を助けるのが有難いと心得ていよいよ自分の助かりに精進していくわけであります、目的はそこ、ひとの難儀が助かる、言うならば、例えば世界真の平和を願わせて頂くと致しましても、ここんところが分かって行かなければ世界真の平和なんていうことはとても難しい本当い世界真の平和のために信心する人が助かることの為に信心する、違うでしょうが。
 初めの間は今私が申しますように、やはり自分の難儀、病気災難といったような所から、神に助けてもらうのであるから、私共は人の難儀が助けられる事を有難いと心得て信心せよというのは、今日のここのところを強調してお話ししているのですけれども、ここのところを、こんな風に頂いたのは初めてですね、これはだから、画期的なというか、このせんを境にです、私はいうならば、人が助かられる事の為に修行をする、人が助かられる事の為に自分がいよいよ本心の玉を研きます、改まりも致します、その為に力を受けなければなりませんという事になります。
 そういう信心を頂かせて頂くという事にですいよいよ生きがいを感じれる信心、素晴らしい事に展開してくると思うですね、それこそこれからの生涯が輝かしい事になると思うですね、だからそのように素晴らしいおかげの展開が頂けれる今日は御理解です。今私が申しました事が分かったでしょか、病気災難のおかげを頂きたいけんお参りしよる、初めは皆んなそうなんですよ、けれどもです、それは神さまから、病気災難の時助けてもらうから、今度はそんなら人の病気を助けられるということを有難いと心得て信心するという、ここのところがこんなに大変な事だとは今日、初めて気づかせて頂きました。
 一生懸命、苦労もしよる、修行もしよる、それが皆んな、いうならば世直しと、昨日はテレビを見よりましたら、ネズミ小僧の事を世直し大明神と難儀な人達のに自分が泥棒してから、もう貧乏人から見るとネズミ小僧は世直し大明神、大体その泥棒の目的が素晴らしいじゃないですか、自分の身欲のため取ろうとは思はん、とに角権力とか財力を以てです、この世を我が物顔にしておる者が、もう腹が立ってたまらん、だからそれをこらしめたいという事と、それを貧乏人のところえ持って行ってやって貧乏人を助けよと、もう目的が違う。
 自分が金を泥棒してから、うんともうかってから、自分が安気安穏になろうというのと目的が違う、そこで貧乏人からだけは世直し大明神といわれるほどしになるのです、私共が泥棒じゃないですよ、いわゆる大義名分とでも申しましようか、信心の、人が助かることのために、自分があらゆる修行もさしてもらおう、ただ自分がこのおかげを頂く事の為の修行だと思い込ませて頂ける信心なんです、いうならば、そういう信心になる時にですね、同じそんならお参りはお参りでしょう百円のお供えをするなら同じ百円のお供えではあっても、その焦点が違うから片一方はただの泥棒であるけれども、片一方は世直し大明神というと、神様のようにあがめられる事になってくるのです。
 だからそこのところの目的を変えられる程しのですね、信心をさせて頂く時にそれこそ生神金光大神とまではいかんでも、金光大神位までは誰でもなれるのです、現に教祖様の御時代には金光大神の御神格を受けられた方が幾人もおられます、金子大明神とか金光大権現といったような御神格を受けておられます、生きながら神様の御神格を受けておられる方達がたくさんあります、その後、御神格をつける事をお上から御法度になりましたから、そういうことはあんまりおっしやっておられませんけれども、それからこの方、百何十年という金光さまの御信心の中にです、あちらは金光大神の御神格を受けておられただろうというような先生方が沢山おられます。
 小倉の桂先生が亡くなられる時には、桂大明神という御神格であったらしいですね、だから亡くなられて、御修行なさったからもう今ごろは、とうの昔に金光大神を受けておられたに違いありません、甘木だって久留米だってやっぱそうです、これは神様が下さる、だからそんなら、信者氏子はどうだったかというと、それこそ、生神さまのようにしてあっかったでしょう全然目的が違うもの、安武松太郎の為とか、石橋松次郎の為に、桂松平の為に、あらゆる修行をなさったというのじゃなかった、人が助かる事の為に御修行なさった、人を助けられることを有難いと心得て信心をなさったということになるわけです。
 そんなら、これは決して、そういう苦労というならば先生だけがせんならんというのじゃない、お互いが助からんならんとじゃから、信者の一人一人がその気にならなければ、私は輝かしいというほどしのことになってこないと思う、昨夜、夜の御祈念に石井喜代司サン達が親子三人で参ってきておる、「あら、今日はどうして参ってきたの」めったに参ってきませんから、そしたら「今日は私の誕生日だから」とまあ、お赤飯炊いたから神様にお礼申し上げるというわけなんです。
 それで私は喜代司さんに又一緒に参り合わせた方達に話したことですけれども、今日はね、ある教会の御信者さんで総代をなさっておられる方で私共の教会で四十年の記念祭があるという、それでその記念祭が盛大に出来ますように、というようなお願いでございました。それでその記念祭を仕えさせて頂くのに、どういう心持ちで取り組んだらよいかというわけなんです。
 そこで私は申しました、例えばね、四十年の記念祭という事はね人間でいうなら四十になった誕生という事なのです、だから四十になったから、誕生になったからというて、さあ赤飯を炊け、おかしらつきのひとつも作る、そして祝うということなんだけれど、そういう程度の教会が四十年になったから、それをお祝いをするというような、程度のことでは記念祭の値打ちはないですよ、四十まで生きらせて頂いたが、どれほど自分がいうならば、社会の為お役にたったか、どれほどしの価値があったか、そこんところを思うて見てです。
 四十年までもこうして生き延ばして頂いたんだけれども、果たした、どれほど価値ある自分であっただろうかと思うてもし、例えば四十年もたった教会で、たったわずかばかりの信者がおるといったようなことでは、どんなに考えてもあいすまん、いうならばあいすまんおわびのお祭りというような事にならせて頂かなければいけんのじゃないでしょうか、そこは非常に寂しい教会なんですよね、人が助からない、子供達も後は継がんというとる、何人もおるけれども、そしてその四十年を境にです、いよいよより価値のある教会としておかげを頂けるようにという願いとおわびのこめられた記念祭でなからなければ値打ちはないですよと。
 はあ、今日はもうよかこと頂いた、ただ記念祭をどげんして近所隣やらの教会におかしゅうないごたる、記念祭を仕えんならんという、こういうことで仕えてはいけない、本当に今日はお参りさせて頂いてよかったというて帰られました人の話を私は喜代司さんにしました。私と一回り違いますから、四十幾つでしょうか、喜代司さん私はあんた位の時分にもうたくさんの人が助かりょつたが、その時分私がいいよったのは私にはまあだ若さがあるからといいよった。
 ところがね、若さがあるといいよった口の下から、もう五十になったらね、もうその若さがあるからというのが言えなくなった。もう途端に目が薄くなる、歯は悪くなる耳は遠うなるというようなこと、「しもうた〃」と思うた時には、もう取り返しがつかなかったと、「喜代司さん今こそあんたどん元気を出させて頂いておかげ頂いとかんとあんたどん後悔することになるよ」と私にはまあだ若さがある若さがあるといいよった、いいよる口のうちから、もうそれがいえない私があったということに私は非常に残念だったと、だからああたはまだ私よりひとまわり若いんだから、まあだ今からなら遅くはないから、いっちよ頑張って信心せないけんよと話したことでしたがね。
 その価値ある生涯とはどういう事でしよか、そらもう自分が一代でこれだけもうけだした、それが果たして価値があるでしょうか、もうけだした為に、子供が無精者になるような事ではないでしょうか、もうけだしたためにかえって巡りを積むようなことはないでしょうか、そういうことをね本当に一生を終わった時に思うてみるならば、それはもうみんな価値はないものです、無価値です、いやむしろ社会に悪を残すような事にしかならんのです。そういう無価値の生涯であっては馬鹿からしい神様に対してあいすまんということになるでしょうが。
 そこでです、今日私がこうして、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心するという信心なのです、だから現在の修行もです。昨日もある方が黙って治めるということで一生懸命辛抱してきたんですよね、私はその人の事を思うと本当にあなたの若さでね、私があんたにこれだけ無理をいうということはちょいと私がやっとかっといきよるところば、あんたにいうことは無理だけれども〇〇さんここはいっちょ辛抱していいたかろうけれども辛抱せんのというて申す青年の人があるのです。
 ところが昨日ばっかりはとうとう言うた。ところがなるほどいうたところが、反対の結果になってしもうた、それでその足でこちらえ走ってその事のお願いやら、おわびに参りました、黙って治めるというけれどもです、もういよいよ辛抱がでけんでいうたというのです、そんならいうたのを聞いてくれればよかったけれども、いうたことが返って燃え上がってしもうたというのである。だからそういう時にです、例えば私共がいよいよ私が真実助かる事の為にこの問題は、この人は使われておるのだからということの事実を分かったらですね、もう本当にいわんですむのですよ、お礼がいえる位なんですよ。
 けれども、例えば、その人が言うこと聞かんならん言うこと聞かんという事だけに、こうやって近視眼的になってますから、それが見えない、そして言うてしもうた、その口の下でです「しもうた〃」と思いよる、結果は悪かった、いかにそれがね、その人じゃない、私をいよいよ助けて下さる事の為に、そういう働きがあってるかという事をです、私共は分からせて頂いて、助かるという事は、そういうふうにして助けて下さるのです私を、いうなら助かるという事は私にそのようにして力を与えて下さるのですよ、そしていわんですむおかげ頂いてそれがいわゆる黙って治める事になった時にです。
 体験することは、成程、素晴らしい事だなあという事が分かってくる初めて、もうその時には豊かな心と力を自分に受けておる、夕べもやはり夫婦で参っておられる方がありました、その奥さんに私がいうのです、もう本当に素晴らしい信心しよんなさるけれども、何かちょっと困った事があるとクシャッとしなさる、私が今さっき神様から頂いた事は、この人の為に頂いたっじゃろうかと思うたから、私はその人の方を向き直し話した事でした、私のいとこの楽長をしております田中、私が何十年間というて琴を聞いてもきておる、見てもおる、いうなら口調子だけなら充分覚えてしまっておる。
 だから、私はそんくらいの事は分かると思うて簡単な事をですね、ちょいと、先生、私にひいて見て下さいというのです、だからもう私はひいた事はなかばってん、弾けると思うとるです、何十年間側で見たり聞いたりしてきとるですから、えらい簡単な事なんです、ところがどっこい琴の前に座ったところが弾けんのです、それでああたこげんですよと、うんうんそうじゃったのとすぐ分かるです、そして弾いてみるけれどもできんのです、というようなお知らせを頂いとりましたから、お互いが例えば黙って治めるといったような事でもです、やはり、まあいうならば本当に倒れ転びなんだけれども、実際手を取って弾いてみてそれでも、それが自分のものになる為には何回か何十回か弾かなければ自分のものにならないようにです。
 だからね奥さん、それは仕様がないてああたが失敗する事は仕様がないけれども、そこんところをひとつ、うまずたゆまず、それに取り組んで、それが自分のものになるところまでは、おかげ頂かなければ、御主人の足を引っ張る結果にしかならんですよ、自分の思うようにならんともうクーッとする、自分の思うようにならんと、もうシュンとしてしまう、神様え向かう心すらが弱ってしまう、それはあんた達が金光さまの信心は何十年と見てもきている、聞いてもきてる、ただお話を聞いてきたばっかりに、稽古しとらんからだと、本当に。
 その事なら、事をです、例えばもう二十年なら二十年信心してござるならです、二十年間その事を稽古しとったらもう、それこそ自由自在に弾きこなせるようになっとろうけれども、ただ何十年間してきとります、素晴らしい有難い先生のお話も随分聞いてきとります、というだけだから、分かっておるつもりだからなんです、ですから本当にその事に取り組んで本当にそういう実際問題をふんまえての稽古をですね、しておかなければならないということ、そういう助かりをです、まず自分自身が頂いていくという事、それがです人の難儀が助かるという事、口にいくら世界真の平和をいうとったっちゃ、一生いうとったっちやつまらん。
 自分自身が本当に一人でもよい二人でもよい、真に助かる人の出来れる助ける事の出来れるおかげを頂いた時にです私はそこに初めて生きがいというか生きておる価値というものがあるのではなかろうかと私は思うです。私がこの世に生を受けたおかげでです、十人なら十人の人がそこに助かったと、だからそんなら、六十なら六十の誕生の時にです、思うてみて自分がこの世に生まれでてきたおかげで十人の人が助かることが出来た、そこには、もう世界真の平和の一歩一歩が築かれていきよる、そんなら、その六十の誕生を境にです、それがさらにさらに、そういう人が助かる事の為の信心というものがです、助かることが有難いと心得ての信心がいよいよ出来るということになるのじゃないでしょうか。
 ただそうにやお参りもする、日参り夜参りもさしてもらうけれども、ただそれが焦点がです、いわゆる自分が助かりやよか、自分の店が繁盛すりやよか、参りや参るがたあるで参ってくる、おかげを受けるですやはり、けれどもそれでは、価値のある信心とはいえない今日を境にひとつ価値ある生涯を、値打ちのある生涯を分からせてもろうて皆さんが持っておる様々な難儀もです、もちろん自分も含めて助からなければなりませんけれども、人が助かるということを、人を助ける事が出来る、それを有難いと心得て信心させて頂くことになったらです。
 もう全然、ねずみ小僧のそれじゃないけれども、もう泥棒といや世の中から、それこそ憎まれるわけですけれども、ねずみ小僧次郎吉だけは反対じゃつた。庶民の人とそれこそ世直し大明神といわれる程しに開きが出来てくる、同じ泥棒でも、目的が違う信心もです、その目的が間違うとですあれどんが、そうにや信心はするばってんというくらいにしかならんです信心のない人達からいうと、けれども、私共目的がそこになってくるとです、その人のおかげで助かる人達がそれこそ、一人の人を助ければ一人の神になるとおっしやるからね、教祖の神さまは、一人を助ければ一人の神だと、十人助ければ十人から神さまといわれるようになるのです。
 そういう価値ある生涯を目指して、そういう価値ある信心をね、させて頂きたいと思います。    どうぞ